吾心似秋月
(わがこころしゅうげつににたり)
先日のお茶のお稽古の軸がこれでした。
秋月とは、秋の月、つまり中秋の名月のことで、自分の心が満月のように澄み渡っているという悟りの境地を表現したものらしい。
また、この軸を見て、夜空に輝く、丸く大きなくっきりとした綺麗な満月の情景を思い浮かべるものらしい。
確かにこの字を読むと、満月がきれいに見える情景がイメージできて、なんだか日々の様々な嫌なことを一瞬でも忘れることができるような気がして、とても好きな軸であります。
というわけで、さらに色々この言葉について調べたところ、どうやら続きがある模様。
元々は、「寒山詩」というものの中から抜粋された1句らしい。
全文がこちら。
吾心似秋月
(わがこころ、しゅうげつににたり)
碧潭清皎潔
(へきたん きようして こうけつ)
無物堪比倫
(もののひりんに たえるはなし)
教我如何説
(われをして いかが とかしめん)
※碧潭(へきたん) 深く青々とした淵
※皎潔(こうけつ) 白く清らかで汚れのない様
意味は、だいたいこんな感じ。
私の心はまるで中秋の名月のようだ。
それは、青く澄んだ池(or湖)の水面に、月が清らかに澄みわたり、照り映えているのに似ている。
とはいえ、この状態を完全に譬えることはできない。
どう言い表せば良いものか。
なお、「寒山詩」なので、もちろん寒山さんが書いたもの。
寒山さんとは、中国の唐の時代のお坊さんらしい。
こちら。
ぱっと見、寒山さんが至った悟りの境地への自慢にも聞こえなくもないですが、それは解釈がちと浅いというもの。
(厳しい修行の結果、ようやく悟りを得たんだが、それってちょうど気分的には満月みたいな感じなんだわ、わかる???これ以上喩えようがないんだけど!! という意味ではない。)
実際、寒山さんは悟りの境地に至ってるのでしょうが、ここは「吾が心」を「仏性(ぶっしょう)」と捉えるのが味わい深いらしい。
仏性とは、我々一般人が持っていると言われる、仏としての本質、を指します。
要するに仏になれる素質、才能、遺伝子って感じでしょうか。
ですが、自分の体の中に絶賛潜伏中で、なかなかお目にかかることはできないし、どんなものなのかはわかりませんね。
とはいえ、「悟りなんか自分には関係ない」とか「煩悩がたくさんあって自分はダメな人間だ」なんて早々に諦めるのは、ちょっと早とちりで、実際はみんな仏性を隠し持っていてただそれが今はまだ活性化していない(目覚めていない)だけってことなのです。
少し話が逸れましたが、この「仏性」を「吾が心」に当てはめて読むと、寒山さんは仏性とはどんなものだろうか、というのを自らが悟った境地から説明してくれている詩と捉えることができます。
なるほど、仏性とは見たことも会ったこともないけど、それは満月のように清く澄み渡って、一点の曇りもない、なんてすばらしいものなんだ。
→そんなものが、本当は自分の中に隠れているんだ。
→自分も捨てたもんじゃないなぁ。
→なんだか気が楽になったなぁ。
→明日からもがんばるか。
というような解釈を自分はしました。
(字を見て、思い思いに解釈をすれば良いと思うので、これは僕の一例です。)
お茶の軸では、色んなものを「仏性」とか「煩悩」に例える印象があります。
漢字で表したらたった数文字なのに、そこから広がる大きな世界があります。
なんとも面白いですな。